鍛錬の必要性 2015/4/8
2015年 04月 08日
鍛錬・・・かね偏で「鍛錬」と書くように、もとは金属を打って鍛えるという意味だろうが、転じて、厳しい訓練や修養を積んで技芸や心身を強くきたえるという意味になったようだ。
「鍛練」とも書く。
どちらも同じような意味のようでもあるし、厳密に使い分けている人はいないのかも知れないし、気にする必要もないのかも知れない。
それに、テニスの用語は総じて英語が多いのでトレーニングという言葉を使うことが殆どでそれはそれでいいのだろう。
でも、トレーニングではなく「鍛錬」をする必要があると感じることがしばしばある。
日本語で言うところの「鍛錬」が使われないのはその言葉の響きに厳しさだけを強く感じ取るからかも知れない。
たとえば、日本刀を鍛錬する様子をテレビ映像などで見ると、灼熱の炎と真っ赤に焼けた鉄の塊と鉢巻をきりりと締めた男性の真剣な顔、そして振り下ろされる金槌が赤い鋼鉄を叩き続け、次第に刀身を形作るさまが描かれることが多い。
そこには厳しさこそあれ楽しい様子は見られない。
あるいは日本古来の武術、剣道や柔道、空手などでの練習で見られる光景はまさに鍛錬であって修行のようでもあって、重苦しい空気が支配しているように見える。
フロリダによく行っていた頃、ホップマンキャンプでリオスと一緒になったことがある。
マルセル・リオス、当時世界ナンバーワンだった。
トレーナーの指示のもと、芝生の上で叫び声をあげながらダッシュを繰り返しているさまは鬼気迫るものがあった。
リオスは日本人とさほど変わらない体型だった。
こうしてフィジカルのレベルをぎりぎりまで高めないとトップの座は維持できないだと思いながら見ていたものだ。
あれは鍛錬以外のなにものでもないのだと思う。
すぐ横でトレーニングする日本のジュニアたちはその姿を見て、すげー!などと言いながら目を丸くしていた。
もちろん年齢や発育発達に応じたものである必要はあるが鍛練というもの、あらためて考えてみようと思う。
え?
自分の鍛錬を先にしろって?